JCETIディスクロージャーシリーズVol2

2000 年12 月

サラス大尉は空軍アカデミーを卒業後,1964 年から1971 年までの7 年間現役勤務に就いた。その後,マーチン・マリエッタ社とロックウェル社で働き,FAA(米国連邦航空局)でも21 年間勤務した。
サラス氏は1967 年3 月16 日朝のUFO 事件について証言する。複数のUFO が頭上に空中静止しているのを保安兵たちが目撃した直後,二つの別々の発射場で16 基の核ミサイルが同時に稼働不能に陥った。
空軍はこの事件を詳しく調査したが,原因らしいものを見つけることができなかった。

私はこう言った。“君,この物体について私に本当のことを言ったのか?
”彼は本当のことを言ったと懸命に訴えた。私は二つの理由で,彼が本当のことを言ったと信じた。
彼が階下の私に電話をよこしたとき,彼は確かに怯えていた。
そして私が彼の目を見,彼がその状況を私に話したとき,私は間違いなく彼を信じたのだ。
私はこの事件について報告書を書き上げた。日誌に書いていた内容も報告書に含めた。

空軍で起きた不可解な出来事に、UFOが関与していた?
詳しい内容はディスクロージャー内で掲載されています。

私は空軍にいたとき,航空管制官だった―我々はそれを地上管制迎撃管制官と呼んでいた。次はミサイル発射将校だった。さらにその後は,ロサンゼルス空軍駐屯地の外にあるタイタンⅢ(* 大陸間弾道ミサイル)推進システムの技術者だった。
そのUFO 事件だが,1967 年3 月16 日の早朝に起きた。私は指揮官のフレッド・マイワルドと一緒に勤務していた。我々は二人とも第490 戦略ミサイル中隊の一部として,オスカー小隊で任務に就いていた。この中隊には,割り当てられた5 箇所の発射管制施設があった。我々はオスカー小隊にいた。
外はまだ暗く,我々は[ICBM(大陸間弾道ミサイル)発射管制施設の]60フィート地下にいた。私は早朝に,隊の保安要員である地上保安兵からの電話を受けた。彼は他の保安兵と一緒に,この発射管制施設の周囲を飛ぶ幾つかの奇妙な光体を見ていた。それらはただ飛び回るという,とても異常な動きをしていると彼が言ったので,私は“UFO だというのか?”と訊いた。
彼は,正体は分からないが,光体が飛び回っていると言った。それらは飛行機ではなかった;それらは無音だった。それらはヘリコプターではなかった;それらは幾つかのとても奇妙な動きをしていたが,彼はそれをうまく言えなかった。
釈然としなかった私は,“もっと重大なことが起きたら呼んでくれ”と言った。
その場のやりとりは,基本的にこうして終わった。彼から再び電話があったのは,数分後どころではなく,多分半時間もしてからだった。今度の彼はとても怯えていた;彼の声の調子はうまく伝えられないが,とても動揺していた。
彼はこう言う。“上官殿,正面ゲートのすぐ外側に赤く輝く物体が1 個空中静止しています―今それを見ています。外では皆武器を構えています”もちろん彼はそう言いながら,とても取り乱していた;とても興奮していた。
私はそれをどう判断してよいか分からなかったが,彼は何をすべきか,私に指示か命令を求めていた。それで私は,次のようなことを言ったと思う。“外周フェンスに問題がないか確かめよ”するとすぐに彼は“確かめてきました。
保安兵が一人負傷しています”と言い,電話を切った。
直ちに私は仮眠していた指揮官のもとに行き―休憩のために我々はそこに小さな簡易ベッドを置いていた―今受けた電話の内容を報告した。その報告の最中に,我々のミサイルが1 基ずつ運転を停止し始めた。運転停止とはʻ発射準備不能ʼの状態になったという意味だ。こうして,管制室のあちこちで警報が鳴り始めた―発射準備不能の赤ランプ。

そのときの記憶ではミサイルのすべてが停止したように思われたが,後日私の指揮官マイワルドと共にこの事件の記憶をたぐっているとき,失ったのはおそらくこれらの兵器の7,8 基だけだったように感じたと彼は言った。

SG:これらの兵器が何だったか,記録のために説明してくれませんか?
RS:これらの兵器はミニットマンI・ミサイルだった。もちろん核弾頭ミサイルだった。

それらが運転を停止し始めると,彼はすぐに起き,我々は二人で状態表示盤を調べ始めた。
我々は,それを調べて停止の原因を突き止める能力を身につけていた。その大部分は誘導と管制システムの障害だったと記憶している。それから彼は,指揮所に報告を始めた。その間に,私はこの物体がどんなことになっているかを知るために階上を呼んだ。保安兵がこう言った。物体は去った
―高速でただ飛び去った。

負傷した保安兵は,この鉄条網を登ろうとしたらしかった。UFO は何も攻撃しなかったし,この空軍兵を傷つけることもしなかった。私は物体の様子を訊いた。彼は次のように話すのがせいいっぱいだった。それは卵形で,物体の周囲は赤味がかったオレンジ色に輝いていた。

SG:その距離と高さはどれくらいでしたか?
RS:彼の話では,それはフェンスの真上に空中静止し,彼から約30 フィート以内にいた。フェンスの高さは8 フィートはあっただろう。

それから1 週間以内に,また別の事件があった。直後のことだった。そのときはレーダー報告に加え,さらに多くの証人がいた。
[ドゥイン・アーネソン中佐の裏付け証言を見よ]
空軍は事件の全体についてあらゆる角度から調査をしたが,運転停止の原因らしいものを見つけることはできなかった。私には,この事件を証言できる相当数の証人がいる―我々の中には調査団に加わった者も二,三人いる―私は調査を実際に組織した人からの手紙も持っている。これ[複数のICBM の

運転停止]の可能な説明は何も見つからなかった。どのミサイルも基本的には自立している。施設の大部分は商用電源から供給されているが,個々のミサイルはそれ自体の発電機を持っている。
カプセル(地下発射管制施設)とミサイルサイトの間の唯一の接続は,SINラインつまり機密情報網ラインと呼ばれるものだ。それらは基本的に埋設ケーブルだが,カプセル自体の内部にあってミサイルに直接つながっている。ミサイルは互いに接続されていないため,一つのサイトの障害は他の場所のミサイルに影響しない。
我々のサイトのどこかで6 基ないし8 基が停止したが,それらは短時間に相次いで停止した。繰り返すが,これはきわめて起きにくい現象だ。原因を問わず,複数のミサイルが停止したことは稀だった。それはきわめて稀なことだった。
気象条件は除外された。すでに述べたように,調査は広範囲に及んだが,電力サージは除外された。実験室で幾つか試験を行なっていたボーイングの技術者が気付いた,唯一の可能性があった。彼は,何らかの電磁力または電磁場が信号を消してしまったと考えた。だがもしそうなら,その電磁力は個々のミサイルにつながっている埋設ケーブルを通っていく必要があった。私が階上の保安兵と話した後,私の指揮官は指揮所に連絡した。指揮所との連絡を終えたとき,彼は私に向き直ってこう言った。
“同じことがエコー小隊にも起きた”エコー小隊は別の中隊だ。そこは我々の位置から50 マイルないし60 マイルは離れている。しかし,彼らにも同様のことが起きた。そこでは発射管制施設ではなく,ミサイルが格納されている実際の発射施設でUFO が空中静止した。
その時刻に彼らの隊には保守と警備の要員が数人いたが,彼らはそれぞれの場所でUFO を目撃した。彼らの場合,10 基のミサイルがすべて停止した―10 基全部だ。

SG:それはほぼ同時刻でしたか?
RS:同じその朝だった。だから,その朝に我々は,UFO がその場所に現れ空軍兵たちに目撃された同じ時刻に,場所は違うが16 基ないし18 基の

ICBMを失ったのだ。それらのミサイルは終日停止していた。というのも,我々はエコー小隊を救援したドン・クロウフォード大佐の証言を得ているからだ。彼はミサイルが警戒状態に戻ったときそこにおり,それには終日かかったと言った。それで私は,我々のミサイルが元に戻るのに1 日かかったと推測している。
我々が救援を受けたとき,階上に行って私が最初にしたことは,保安兵の目を見ることだった。私はこう言った。“君,この物体について私に本当のことを言ったのか?”彼は本当のことを言ったと懸命に訴えた。私は二つの理由で,彼が本当のことを言ったと信じた。彼が階下の私に電話をよこしたとき,彼は確かに怯えていた。そして私が彼の目を見,彼がその状況を私に話したとき,私は間違いなく彼を信じたのだ。

私はこの事件について報告書を書き上げた。日誌に書いていた内容も報告書に含めた。我々は基地に着くとすぐに,中隊長に報告しなければならなかった。
その部屋には,中隊長と共に空軍特別捜査局(我々の基地には空軍特別捜査局があった)の人間が一人いた。彼は中隊長と一緒にその事務所にいた。彼は私の日誌を要求し,簡単な説明をしてほしいと言ったが,何が起きたか彼はすでによく知っているようだった。
それでも我々は簡単な説明をした。彼は我々二人に,これは機密情報だからと言い,機密保全誓約書に署名するよう求めた―我々は誰にもこれを漏らしてはいけない,そういうことだった。
我々は話せなかった;彼はこう言った。我々はこれについて誰にも話せない,他の隊員にも,配偶者にも,家族にも,お互いの間でさえも。

これで事件はおしまいだった。私はそこのマルムストローム(* モンタナ州マルムストローム空軍基地)に,その後さらに2 年間いた。その間,我々はその事件について何の概要報告も与えられなかった―エコー小隊の事件も我々の事件もだ。それはとても異常なことだった。なぜなら,装置に起きた異常については,どんなことでも毎朝説明を受けていたからだ。我々は説明を受け,兵器に関して生じたこれらの技術的諸問題を議論した。しかし,これらの事件については何も一度も聞くことはなかった。そしてこれらは重大事件だった。実に重大な事件だった。

私は,情報公開法請求により我々が受け取った,あるテレックスのコピーを入手した。それは,あのことが起きた朝,直ちに戦略空軍司令部からマルムストロームや他の基地に送られたものだった。それには,この事件に戦略空軍司令部がきわめて重大な懸念を持っていると書かれていた。なぜなら,彼らはそれを説明することができなかったからだ。起きたことを誰も説明できなかった。それにもかかわらず,我々が説明を受けることは決してなかった。我々には,扱っているものが核兵器だという理由で,きわめて高い機密取扱許可が与えられていたにもかかわらずだ。

ミサイルが停止したとき,これらのサイトでは侵入防護警報が確かに鳴った。これは異常だ。というのは,通常ミサイルが誘導障害か何かで停止した場合,侵入防護警報は鳴らないからだ。これは境界線が破られるか,物体がフェンスを横切ったか,あるいは何かが発射施設の境界線にある侵入防護警報システムを壊したことを意味する。私はそれを調べるために,それらの施設の2 箇所ほどに保安兵をやった。

この話がとても重要だと考える理由は,それより前の1966 年8 月,ノースダコタ州マイノットのマイノット空軍基地で,とてもよく似たことが発射管制施設の一つで起きていたからだ。彼らは我々と同じ種類の兵器システムを持っていた―彼らはM-1(* ミニットマンI)ミサイルを持っていた。これ[UFO]はレーダーで目撃された。幾つかの通信障害が起き,物体は発射管制施設の上で目撃された。これは1966 年8 月に起きた事件で,十分な証拠書類がある。

私の事件に先立つ約1 週間前,1967 年3 月に保安兵の一人がかけた電話記録を私は入手した。彼は発射施設を見ながら外で叫んでおり,今私が説明した発射施設の上の物体にとてもよく似た物体を見ていた。指揮官は指揮所に報告した。我々の事件後約1 週間か10 日して,文書で十分に立証されている事件がマルムストロームで起きた。この事例では,マルムストローム空軍基地近くで1 機のUFO がレーダーで追跡され,比較的近距離からトラック運転手と高速パトロール警察官によって目撃された。空軍は調査を行ない,こUFO 目撃に関する分厚い調査報告書を作成した。なぜなら,それは基地の周辺を飛び回り,しかも基地にとても近かったからだ。

これは,ミニットマン・ミサイルという同種の兵器システムに関係して発生した,一連の事件だ。
保安兵が私に提出した報告は,公式の報告だ。これらは悪ふざけではない―それらは公式の報告以外のことを意図したものではない。
なぜなら,我々は冷戦とベトナム戦争の最中に戦略兵器を扱っていたからだ。これらの保安兵たちは職業集団であり,兵器の停止や彼らが見ていたものを冗談の種にはしなかった。だから,これらは噂ではなく,公式報告だった。もしそれらが何かの理由で撤回されていたなら,これらの人々はとても機密性の高い事件の中で虚偽の報告をしたとして,軍法会議にかけられていただろう。そんなことは起きなかった。

ボブ・コミンスキーが,これら(*UFO に関係したICBM)の運転停止のあらゆる側面を調べるために組織を率いた。ある時点で彼は上司から,空軍が“調査を中止せよ;これについてこれ以上何もするな,最終報告書も書くな”と言っていると言われた。コミンスキーは私に書面でそう述べた。繰り返すが,何よりもCINC-SAC(戦略空軍最高司令官)が,ここで起きたことを正確に解明することはきわめて重要だと述べていたのだから,これはきわめて異常だ。それにもかかわらず,調査団の団長が調査中にそれを中止し,最終報告書も書くなと言われたのだ。

実を言えば,この事件を報告した多くの保安兵たちがベトナムに送られたと聞いた。私はそれを事実として知っているし,証明することもできる。私が発射施設まで物体を見に行かせた保安兵の一人は,戻ってきて経験したことにとても動揺していた。それ以後,彼は警備の任務を解かれた。彼はどこか別の所に送られた。なぜなら,その経験にあまりにも動揺していたからだ。
[核施設周辺で起きたこれらの事件や関係するUFO 事件について述べた,公式政府文書を見よ。SG]