“B 博士”の証言
2000 年12 月
“B 博士”は,そのほぼ全生涯を極秘プロジェクトのために働いてきた科学者であり,技術者だ。彼は多年にわたり,反重力,化学兵器,防御された遠隔測定および通信,超高エネルギー宇宙レーザーシステム,電磁パルス技術といったプロジェクトで当事者として働いたり関わったりしてきた。“B 博士”は,あるグループがこれらの宇宙兵器を用いて,地球外宇宙機とその搭乗者たちを撃墜したことを直接に知っている。少なくとも一度の機会に,彼は地球外宇宙機を直に目撃した。

DR. B:“B 博士”/ SG:スティーブン・グリア博士
DR. B:私は1943 年に生まれた。ノーマン・ミラーが私を取り上げ,私はMK ウルトラというプロジェクトの一人になった。それがすべての始まりだ。
父は世界的に名の知れた科学者になり,ヘンリー・フォードやハワード・ヒューズとも一緒に働いた。
だから,トランプ流の言い方をするなら,私は運のいい精子バンク科学クラブの出身者だ。子供ながらにそのことは知っていた。優れた親を持つ子供たちは,その多くの場合がDNA 研究の対象になっていた(そうしたことは実際にベトナムで表面化した。戦争を拡大させた一因なのだが,それはまた別の話だ)。

しかしともかく,彼らは私を観察し続けた。案の定,私には科学的才能が備わっていた。
私は9 歳のとき,ミシガン州アナーバーで大学との共同科学プロジェクトに取り組んだ……
ミシガン州を後にしたのは15 歳のときだ……政府が私を空軍に入れることを決めたので,私は15 歳のときに空軍行きの手続きをした。このとき政府が入ってきて,私の名前を変えた。私はB・B だったが,彼らはそれをF・B に変えた。

[偽装工作がきわめて深いレベルで行なわれる場合,こうしたことは珍しくない。
上司の名前が変わることについて述べているデニス・マッケンジーの証言を見よ。SG]

母は私の名前が変わることをまったく理解することができなかった。父はそのとき遙かカリフォルニアにいた。
こうして,彼らは私の前に姿を現した。まるで本から取ってきたような話だが,本当のことだ。彼らはCIA(中央情報局)とFBI(連邦捜査局)を一人ずつ連れていた。私に有無を言わせないためだったと思う。私は書類にサインをし,16 歳で空軍に入った。彼らは私をリトルロック(* アーカンソー州)に連れていき,この陸軍基地のすぐ外側に置いたが,そこは化学戦と細菌戦を担う部署だった。

私は17 歳になるまでの6 箇月間そこにおり,それからラックランド空軍基地(* テキサス州)に行って訓練を受けた。そこを終えると,彼らは私をキースラー(* ミシシッピー州,空軍基地)に連れて行き,その後はUSAFI だった。私は軍隊協会,USAFI で約1 年間早期警戒レーダーを学び,その技術を持ってポイントアリーナ空軍駐屯地(* カリフォルニア州,1998 年に閉鎖)に行った。我々
はポイントアリーナに行き,325 メガヘルツから425 メガヘルツの局部発振器周波数でレーダーセットを稼働させた……

我々はAN/FPS-35 レーダーを持っていた。それは466 フィートのアンテナ(* アンテナの幅は約120 フィート)を取り付けた9 階建ての構造物で,そのパワーは5 メガワット,HAARP(ハープ)よりは遙かに小さく,探知距離は455 マイルだった。当時その情報はすべて機密扱いだった。

我々はそれを探査セットと呼んでいた。それで北カリフォルニアの上空を毎夜見ていたのだが,そのとき何千というボギー(UFO)が,ポイントアリーナから約20 マイルの場所に降りてきたのだ。それらは時速2 万マイルの速度で降りてきた。その後バハ(* バハ・カリフォルニア半島)付近まで南下して左折し,メキシコを横断した。メキシコでは,それらが時速5,000 マイルで飛ぶのが目撃された。
ボギーは時速2 万マイルの垂直降下をし,時速5,000 マイルの水平飛行をした。ほぼ毎夜だった。我々の部屋にはPPI スコープという装置が備えられていた。つまり,Planned Position Indicator Scopes(平面位置表示器)だ。

彼らはDDS フォーム332 に記入し,警備の軍曹に渡していた(*DDS フォーム332 は軍内部で未確認飛行物体を指揮系統上位に報告するときの様式)。なぜなら,ここは二重保安区域だったからだ。
装置に不具合が生じると,私が行って原因を調べ,解決した。私の認証番号は186017,その後が69 か89 だった。それが私の空軍の番号だ。確認してほしい。

しかし,彼らはその[UFO]報告のほぼ半数をシュレッダーに放り込んで破棄した。これは実に奇妙なことだった。あなたもそう思うだろう。大量のクズがそこで生産されていたというわけだが,しかしそれは私が軍で経験する不可解な物事の始まりにすぎなかった。
これは1961 年か1960 年のことだ。我々はこの報告を,ノバト[カリフォルニア州]の内陸側にある[よく分からない]空軍基地に上げた。報告は1000 件に達した。我々はSAC,戦略空軍部隊の一つだったが,こうしたことが一年中続いた。

ある日の午後,私はハリー・バンティング少佐にこう訊いた(* 原文では担当下士官のハリー・バンティング少佐という矛盾した表現になっている。フレッド・ベル博士の著書によれば,尉官だったB 博士はまず担当下士官に報告破棄の理由を訊いた。
しかし埒が明かず,基地指揮官のハリー・バンティング少佐とこの問題について議論した)。“なぜ我々は報告,DDS332 を破棄しているのですか? 私が納税者なら,UFOについての真実を隠す必要があるでしょうか?”彼が“政府がそうするように命じているからだ”と言うので,私は“もう政府を信じない”と言った。私は政府を信じることができない。

後年,私は[幾つかの]会社のコンサルタントになった。ラスベガスのEG&G 社にはよく出向いたが,それは彼らがエリア51 に行くときだった。また,テキサス州アマリロの原子力委員会(AEC)にも出かけていった。身分を隠したCIA 職員と一緒に,ニュージャージー州マレーヒルのベル電話研究所にも行った。ラングレー(* バージニア州,当時のCIA 本部所在地)に行くのは常にCIA のためだった。
クワンティコ(* バージニア州,FBI 訓練所)にもよく行ったが,そこではFBI のために働いた。私はどこへでも行った。なぜ私はどこへでも行ったのか? ご覧のとおり,ここにはいろいろなものがあるが,そのすべては私がつくったものだからだ。私は計装専門家であり,7 歳の頃からそれを得意にしていた。

私は自分の会社を持っていた。スコープス・アンリミテッドという名前だ。
それ以前にはEH リサーチ社で働いた。私は高給取りで給料はとてもよかったが,1971 年にそこを辞めた。
ロックウェル社の契約でNASA に来る前,まだオートネティックスにいた頃の話だ。私はアイグラス(EYEGLASS)と呼ばれるプロジェクトで働いた。

プロジェクトは10 億ワットのレーザーシステムに発展したが,それは宇宙から発射して異星人を撃墜するために使うものだった。私はそれを見たことがある。私はそのプロジェクトで働いた。
こうして,私が政府の側に身を置いたとき,マレーヒルのベル電話研究所から発信された何か奇妙な情報を目にするようになった。

SG:我々が実際にET 宇宙機を標的にして攻撃したことがあると言っている
のですか?
DR. B:そのとおりだ。間違いない。

私にはノーム・ヘイズという友人がいる。彼は今この通りに住んでいる。彼もロケット科学者だが,実際にレーザー分野に関わっている。
我々はこれらのシステムを1962 年,1963 年に開発した。それは1960 年代に実に強力になっていた。

SG:それがどのようなものか,説明してください。
DR. B:それはプラズマと呼ばれている。それは電子プラズマ光線と呼ばれて
いる。
SG:それらは宇宙に設置されているのですね?
DR. B:そう,そのとおりだ。それらは宇宙に設置されている。しかし今は

747(* ボーイング747 機)にも積まれている。1 年ほど前,ポピュラーサイエンス(Popular Science)誌の表紙にもあった。それは彼らが開発した新しいレーザープラズマ装置だった。

[議会からの召喚があるまで名乗り出ることを躊躇している幾人かの証人は,我々が地球外宇宙機を標的にしたことがあり,現在も標的にしていること,そのうちの数機が破壊されたことを私に確証した。もしそれが事実なら,そして私の情報源はそれが事実であることを示唆しているのだが,これは世界の安全保障にとり人類史上きわめて重大な脅威であり,適切な監督を逃れている秘密がどれほど我々の安全を危うくするかをはっきりと示している。SG]

私はヒューズ・エアクラフト社とTRW 社で働いたこともあり,そこで行なわれているすべてのプロジェクトに関係していた。ヒューズ社が取り組む主な分野は,他の誰も聞くことも盗聴することもできない,機密チャンネルを使った宇宙飛行士との間の遠隔通信だった。

[UFO との遭遇を伝えるアポロ宇宙船からの送信を機密チャンネル上で聞いたハーランド・ベントレーの証言を見よ。SG]
私はロッキード・スカンクワークスでも働いた。そこで,こうした種類のあらゆる物事が起きるのを見たのだ。つまり,私がそれをしたという意味だが,それについては話すことができなかった。

だから,本当に私は必要な人間だった。自慢するわけではないが,ここにある論文はすべて私が書いたものだ。いつも新聞やエレクトロニック・ニュース(Electronic News)などに出ていた。
私がEG&G 社にいたとき,そこの警備はとても厳重だった。同社の工場にはあちこち行ったが,その一つがラスベガスにあった。私がいつもそこに行っていた理由は,私がEH リサーチ社にいたときに我々が単発試験という技術開発に取り組んでいたからだ。この技術は後にEMP,電磁パルス技術として知られるようになった。私はその測定装置を開発したパイオニアの一人だった。

EMP にはずいぶん力を注いだが,それがそこにあった。
ところで,EG&G 社は国内の至る所にあった。それはドイツの会社だったと思う。しかし,ラスベガス工場だけは常に少し違っていた。
マーチン・マリエッタ社とTRW 社の写真が私の本の中にある。それらはすべて今もそこにある―私がこれらの場所で働いたことを示すものだ。

我々はまた,1950 年代に五大湖の向こう側のカナダで磁気プロジェクトを行なった。それが私の本に書かれている。我々はライト―パターソン空軍基地とデンバーのマーチン・マリエッタ社でも行なった。ボール・ブラザーズ社;私は彼らの工場に何度か行ったことがある。彼らは広口ガラス瓶をつくっているが,ある種の最先端航空宇宙用品もつくっている。ロックウェル社,ロッキード社,ダグラス社,ノースロップ社,グラマン・エアクラフト社,TRW社。ヒューズ・エアクラフト社は重要な関与をしていた。私はロサンゼルスにあるヒューズ社の施設で働いたことがある―一つはここフラートンにある。
当時,私は両方の施設で多くの極秘プロジェクトに取り組んでいた。

SG:何をしていたのですか?
DR. B:反重力だ。実際,私はマリブ(* ロサンゼルス近郊)にあるヒューズ社に

出かけていったものだ。彼らはそこに大きなシンクタンクを持っていた。巨大反重力プロジェクト;私はそこで彼らに話をし,アイデアを与えた。なぜなら,彼らは私のすべての装置を買ったからだ。
[マーク・マキャンドリッシュ,ウィリアムズ中佐,ドン・ジョンソンの証言も参照されたい。彼ら全員が反重力プロジェクトのものであるヒューズ社の設計図を見た。SG]

しかし,米国民はそれについて決して,決して知ることはないだろう。
私には航空宇宙分野で働いている仲間たちがいる。我々は時々小さな会合を持つ。そのとき,私の友人の一人は円盤を飛ばした。あなたは多分その円盤を見たことがあるだろう。ご存じエリア51 からだ。

この空飛ぶ円盤は小さなプルトニウム反応炉を内蔵している。それは電気を発生し,これらの反重力円盤を駆動する。我々には次世代の推進装置もある。
それは仮想フィールドと呼ばれ,それらは流体力学波と呼ばれる。
そのアイデアを実験室に持ち込み,プラズマシステムの中で12 種類の異なるレーザーを用いると,そこに流体力学波が生じる。そのようにすると,あなたが写真に撮った三角形の飛行物体をつくることができる。彼らはこれらの物体を英国ベントウォーターズの近くで組み立て,その場所で飛ばした。

私がNASA を去った理由:私が宇宙船について話し始めたことだった。私にはシールビーチ(* カリフォルニア州)で一緒に働いた何人かの友人がいる。
我々はそこでサターンII ロケットの2 段目をつくっていたのだが,私はつくづくこう思い始めた。我々はここで一体何をしているんだ?[ロケット推進を使うのは]馬鹿げている。ウェルナー・フォン・ブラウンがそこにいたし,彼の親衛隊もいた。彼らはいつも黒い衣服,スキーズボン,金色ヘルメットを身に着けていた。つまり,これらの人々はナチスのように盛装していた。本当にそんな格好だった。
我々はNASA の結構な地位にいる何人かの人の周りで,サターンがいかに馬鹿げているか,電気重力[反重力]推進を使い始めることがいかに必要かを真面目に議論した。その結果,私はかなり深刻なトラブルに巻き込まれてしまった。
基本的には,ここでそういう話はするなという警告になった。他にもまだあったが,すべてを話す必要はないだろう。

SG:あなたはウェルナー・フォン・ブラウンを知っていましたか?
DR. B:個人的に知っていた。
SG:彼はこのUFO の問題について何か知っていましたか?
DR.B:彼はこれについてあまり話さなかった。私は彼の家族を何人か知っていた。彼は大変家庭的な人間だったが,信じられないほど神経質だった。だから彼は生涯を通して潰瘍を患ったのだ。私が彼から求められたのは,ロックウェル社の品質管理をすることだった。というのは,ここで多くの火災が発生していたからだ。そのために爆発事故も起きた[ケープで宇宙飛行士たちが犠牲になった](
*1967 年1 月27 日,ケネディ宇宙センターでアポロ1 号に発生した火災により,訓練中の三人の宇宙飛行士が死亡した)。我々は予算超過と呼ばれる状態にあった。[ロックウェル社の]我々は儲けに儲けていたので,その余剰金で何でも買った。

彼らは散財し,結局はそういうことになった。つまり予算超過だ(* ロックウェル社の事業は拡大路線を続けていた)。それに加え,彼らはメキシコ人を多く雇った。我々技術者は仕事を終わらせるために,メキシコ人を使わなければならなかった。しかし,メキシコ人技術者の多くは間もなく仕事に身を入れなくなった。つまり,書類上だけで仕事を終わらせるようになった。結局,できの悪いロケットができあがり,それがケープ(* ケネディ宇宙センター)に行った。誰かが犠牲になるのは予想されていたのだ。
私は,この反重力推進問題を人々に話していただけではない,フォン・ブラウンにもそれについて話していた。ご存じのように,私はよく喋る。そのときはもっとそうだった。

さて,我々がサターンロケットを格納庫から引き出していた最初の夜,私は揺り起こされた。私はコンピューター操作卓に座り,よく眠っていた。明け方の4 時に,技術者の一人が近寄ってきて私を揺り起こした。“B 博士,外に来てください。何か大変なことが起きています”今起きているというのだ。“何だ? 一体何が起きているんだ?”と私は言った。彼らはちょうど鳥[サターン]を引き出し,皆で写真を撮っていた。そのとき,1 機の大きな円盤がカリフォルニア州シールビーチに降下してきた。それが空中静止している写真を私は持っていないが,その降下した円盤を400 人の従業員が見た。それは1966年の4 月頃,早春の朝4 時だった。

SG:どのようにしてこれが完全な秘密にされてきたのですか?
DR. B:一緒に働いていた何人かの人がある計画の途中で消えてしまい,消息を絶ったことを私は知っている。彼らは文字どおり消えた。
私の仕事の全期間を通じてその証拠がある。その人たちはプロジェクトのために出ていった[そして消えた]。しかし,[これから身を守るために]私はプロジェクトのためにどこにも行こうとしなかった。何か奇妙なことが起きていると分かったからだ。そうして,多くの人々が本当に消えてきたのだ。彼らは上の人たちだ。
マレーヒルのベル電話研究所にいたとき,彼らは何かの物質について話していた。後になって知ったのだが,それはロズウェル墜落事件の際に持ち帰られたものだった。光ファイバーではなく,何か別の光学物質だった。

[フィリップ・コーソ大佐,ドン・フィリップス,その他の証言を見よ。SG]
私が知っているもう一人の人物は,船(* 宇宙船)に関わっていた。ARV(* 複製された異星人の輸送機)と呼ばれる,逆行分析(reverse engineering)により建造された船だ。

[Alien Reproduction Vehicle(ARV)。マーク・マキャンドリッシュ,その他の証言を見よ。SG]
それはエリア51 でそう呼ばれていた。彼とその精鋭グループはCIA 系のある攻撃部隊にいたが,アリゾナ州で1 機の宇宙船を発見した。彼らはそれを隠せるだけ隠し,ある博物館に売ろうとしていた。しかし結局は没収された。
つまらない隠し事はいつだってばれる。名前は思い出せないが,私の友人の一人はラスベガスに住んでいてCIA と一緒に働いている。彼をそこに引き込んだのは私だった。彼はエリア51 に連れていかれた。彼は医者だったが,そこでこの巨大な地下施設と,飛んでいる実際の船を見せられた。三角形の宇宙船で地球外のものだった。

この友人は,私を介して彼らの情報提供者になった。彼は最初そうなることを死ぬほど怖がったが,以前FBI のために働いていたし,そのとき我々は友人だった。こうして,これらの人々はいつのまにか私の人生に入ってきた。私の友人の何人かはFBI とシークレットサービスで働いている。こういう組織は彼らを引き入れる。彼らは直接仕事をするわけではなく,情報提供をする。
それをどう言えばよいのか:国家公安とか,何かそのようなことだ。こうして彼らはある時点で洗脳され,別の人格になる。

[ʻ学校ʼと,そこに入った者がいかに嫌な人格に変わって出てくるかを述べたクリフォード・ストーンの証言を見よ。SG]
いずれあなたには何人かの名前を教えるつもりだが,今はそうしない方がよい。なぜなら,彼らは怒るだろうからだ。しかし彼らは大変な有名人で,何人かはエンターテイメント業界の大物だとだけ言っておこう。大変な大物だ。
私は空軍にいたときに有名になった。それが命を守る唯一の方法だったからだ。それは功を奏した。

SG:それが,私がこれまで行なってきたことです。
DR. B:そのとおり,あなたはそうでなければならない。私はとても有名になった。1980 年代には数百万人の人々が私の名前を知っていた。
私がアスペン(* コロラド州)にいたとき,そこのFBI ハウスに滞在していた。その家は,ロサンゼルスに住んでいる私の友人が所有していたものだった。あなたが見たそれらの[UFO]宇宙船の写真は,その家から撮られたものだ。私はそれを[アスペンにある彼の家の]窓から撮った。それは人々にどんな反応を引き起こしたか(*B 博士がこの家に設置した波動送信装置に反応してUFOが飛来した。町民のほとんどがそれを目撃したため,そのニュースがアスペン・タイムズ紙に掲載された)。あなたはご存じか? 彼はそれについて知っていた。彼の家にそれがあったからだ。私はそのグループにいるが,今はあまり関わっていない。今私には意見を同じくする強力な友人が何人かいる。彼らは私がしていることを実によく理解している。だから,歩みは遅いが我々はこれを明るみに出しつつある。

私はそれについて,プロジェクト・モナーク[政府の無法プログラムによる麻薬密輸]についてはよく知っているが,あのキャシー・オブライエンの話に出てくるような物事には関わっていない。私がそのプロジェクトに巻き込まれた理由は,政府職員だったときにコカインの点滴薬を幾つか見ていたからだ。

しかし,当時はそれが何なのか分からなかった。後年になって,私はそれが何だったのかを知った。それを見たのはアーカンソー州だ。ブラックボックス資金[無法極秘プロジェクトの財源]がそれ[麻薬資金]から来ていたので,こ
れを知るようになったのだ。

SG:何からですって?
DR. B:コカインだ。基本的にDEA(麻薬取締局)がしていることは,もしあなたがマフィアで,CIA と一緒に仕事をし,協力的ならオーケーということだ。協力的でないと,マヌエル・ノリエガ(* パナマの軍人,政治家)のようになる。それが彼に起きたことだ。しかし,暴力団員はもちろんそんなに有名ではないから,彼らがDEA によって始末されるときには,世間に知られることも,フロリダでの滞在を楽しむこともない。

[この証言は突拍子もなく聞こえるかもしれない。しかし,私はこれらの闇のプロジェクトと麻薬取引をつなぐ別の信頼できる筋に面接取材をしている。その一人,サイク(SAIC)社のある上級取締役は,直接私にこう語った。これは事実であり,ʻ知る必要性(need-to-know)ʼレベルの機密作戦のもとで麻薬密輸だけに従事する,実に8000 人規模の部隊がある。また,この8000 人(我々がこれについて話した1997 年時点での人数)のうちの2000 人が,些細な機密保全誓約違反のために殺されてきたと。そして彼はこう断言した。これ(* 麻薬取引)が主要な闇資金源の一つであり,この国を荒廃させている,しかし,それを終わらせるためにこの強力な殺し屋集団に進んで立ち向かおうとする者は誰もいない。SG]

ブラックボックス・プロジェクトの内部にいたため,こうしたことが私の周りで起きていた。当時はそれがすぐ身近で起きていた。これは1960 年代の昔のことで,今ではない。その後,友人と話したり,ここのボヘミアンクラブに関わったり……本を書いたり,あの友人がその後どうなったかを語り合ったり,まあいろいろ回想し始めたとき,やっとすべてが私の中で一つにまとまったのだ。それはまったく途方もないものだった……
(* 原文では,他の関連資料にはある以下の部分が欠落している)
誰が[ホワイトハウスの]中にいるかは関係ない。なぜなら,産業界が今これを支配しているからだ。特別利益団体―それは現在この国のすべてを動かしている基盤だ。

SG:特にどの業界ですか?
DR. B:どの業界かって? 石油業界だ。ご存じのとおり,どちらの陣営の候補者もガソリン価格については一言も言わず,それを放任してきた。彼らはヨーロッパ並みにガロン当たり4 ドルになるまで価格をつり上げるだろう。

ジムという名前のこの人物とは仕事仲間だ。彼は以前ハワード・ヒューズのもとにいた。ハワード・ヒューズもまたそれについて知っていて,彼を雇ったのだ。ジムは科学者で,私と一緒に働いたことがあったが,反重力に真っ向から取り組み,それに夢中になっていた。彼らは幾つかの実質的成果を上げた。

SG:ロッキード社は反重力に何か関わりを持っていましたか?
DR. B:もちろん,関わっていた。これはプロジェクト・マグネットにまで遡る。ベル・エアロスペース社―彼らがこのプロジェクト・マグネットを担っていた。私は五大湖の向こう側でそれに取り組んでいた人々と話をしていた。
プロジェクト・マグネットは,米国とカナダが合同で取り組んだ最初の反重力プロジェクトだ。その結果,彼らは実際に飛行する円盤を持った。その写真があちこちにある。

SG:それは何年のことでしたか?
DR. B:1951 年だ。
[ウィルバート・スミスによるカナダ政府の文書,およびフィリップ・コーソ大佐とその子息,クリフォード・ストーン等による関連証言を見よ。SG]
何年か前に,NASA エイムズ研究センター,モフェットフィールドから一人の人物がやってきて,私を夕食に連れ出した。彼は政府カードその他何やかやを見せて,こう言った。“少ないが,あなたのために5 万ドルの補助金を用意しました”私は“とても興味深いお話だ。長い間,NASA のためには何もしてこなかった”と言った。彼は“ジェット旅客機の燃費を改善するために,風圧の抵抗を減らすアイデアをあなたに出してほしいのです”と言った。私は“やりましょう”と言った。

このことも私の本に書いてあるし,その写真も手元にある。私は彼にデザインを示し,737(* ボーイング737 機)を取り上げてこう言った。“エンジンを火炎ジェット発生器にしよう。それはきわめて強力な静電エネルギー発生源だからだ。そこから数百万エルグもの電気エネルギーが無駄に捨てられている。それを利用するのだ。飛行機の主翼の前縁部に正電荷を集め,後縁部の表面に負電荷を集める。方向舵,昇降舵,尾翼の前縁部についても同様だ。マイラーを絶縁体とし,白金ロジウム板を使って大量の正電荷を蓄える。速度が上がれば上がるほど,多くのエネルギーが放出される。特に後縁部において正電荷を帯びた粒子が多く放出される。そうすれば風の抵抗が減り,この飛行機の場合はほとんどゼロになる”

“それは200 ノットか250 ノットあたりで,離陸直後に機能し始める:それはV-3(* 第二次大戦中にドイツ軍が開発を試みた多薬室砲)の速度に達する。高度を増すと,その効果は驚くべきものになる”私は彼に何枚かの図面を送った。一
週間後に彼は電話をよこし,こう言った。“B 博士,これは我々があなたにお願いしたことの範囲を超えています。これはできません
”これはできないと彼は言った。私は“どうしてできないのか。これは実現可能だ”と言った。彼は“ええ,これは実現可能でしょう。しかし我々はこのような技術を使いたくありません”と言った。この会話から,私は何かがおかしいと気付いた。(あな
たが帰る前に,この人物の名刺をお見せしよう)

その後,私はアビエーション・ウィーク(Aviation Week)誌の友人,マーク・マキャンドリッシュにこのことを話した。そして,私のデザインがB-2 爆撃機前縁部のそれと同じであることを知った。これは超音速で飛行する。私は彼らがすでに持っていたデザインを彼らに与えたというわけだった。彼らはそれに動揺した。なぜなら,それはロッキード・スカンクワークスから入手した
機密情報だったからだ。

それはロッキード・スカンクワークスにいた私の友人からもたらされた。言っておくが,彼は結局姿を消した。多くを話し始めたために,ある日忽然と姿を消したのだ。もはやどこにもいないし,どこに行ったか誰も知らない。一夜のうちにいなくなってしまった。彼は実に素晴らしい情報提供者で,オーロラ
(* 極超音速機ロッキード・パルサーの愛称)のすべてを私に教えてくれた。