私たちはいま、宇宙的に重要な時代に生きている。今日人間は、機密計画においてではあるが、星間宇宙を移動する手段をもっている。そこで私たちは、人間中止の霊性から、真の宇宙的霊性へ進出する必要がある。それが起こらないならば、私たちは人間に定められた運命の次の段階へ進化することはできない。

「まず、これは無理な要求というものだ。私たちはまだここで殴り合っており、そのうえ今度はどこかよその生命形態と関わり合う必要に迫られているなんで、と言う人もある。だが、このように見てはどうか―宇宙にいるのは私たちだけではないことを認めれば、人間、つまりすべての人間が、非常に身近な親類のように思われてくる。そこで、他の文明を理解しようとする意欲を取り扱うためには、霊性についての人間中心的な見方を超越し、宇宙的な霊性へ進化すべきだろう。これは実際にきわめて積極的な発展である。こうした意欲が、真に発展的でもっと大きな純粋なる霊性へ向けて人類を前進させるだろう。この純粋なる霊性は、分離を助長する誤った信仰制度に引きずられて、あまりにも長期にわたって見失われてきた。

 実は、分離というものはないのだ。私は多数のアメリカ原住民と話をしてきたが、ヨーロッパ人と出会った初期における著しい特徴のひとつとして、ものごとが別々だという感覚で暮らしていたことを挙げている。アメリカ原住民にとって、こういう考え方は全く奇妙に思えた。居間でも〝ドリーム・タイム″の習慣をもち、気付いているオーストラリアの原住民なら、分離の無いことを知っている。そこには、星、無限の事物、人々、世界などとの結合感がある。今日のように分離の中に暮らしている私たちは分離の程度だけ苦しむ。私たち自身と、存在するすべてのものがひとつであると言う感覚の中で暮らすなら、その一体感の程度だけ苦しみから解放される。

 だから、これが絶えず繰り返される基本論題である。それは、ノン・ローカルなコズミック・マインドの経験に根ざした、宇宙的な一体感の経験だ。世界平和ではことは足りない。いまや宇宙平和の時代だ。宇宙平和か、そうでなければ無である。宇宙平和がなければ、人間の将来はあり得ない。

 私たちはこういう時代に生きており、それが来るべき時代の挑戦である。人間は宇宙的存在、目覚めた存在であるという自覚をもつ必要があり、その自覚の上に宇宙平和と確立することがdきる。最初はただ知的に研究するだけでいいが、最終的にはそれを経験的に知る必要がある。

 現代は教育の機会がどこにでもあり、たいていの人が文字を読めるから、この惑星上のすべての住人にありとあらゆる知識が開かれるはずだ。この知識の流れを妨げる門衛や妨害者は、降りて通路のわきにいるべきである。

 ものごとを直視しようではないか。地球上の一千人のうち、文字を読めるのはひとりしかいない時代があった。聖職者が法律学者だった時代であり、彼らが大衆に霊的教えの内容をよんでやるか、繰り返し聞かせてやるかしていた。一般教育が普及し大多数の人が読める時代に、その必要はない。読み、そしてあなたの霊的コミュニティの人たちと呼んだ内容を分かち合うといい。しかし、誰かをグルや司祭に祭り上げる必要はない。そうすることは、実際にあなたの霊的進歩にとって有害である。それがニュー・エイジのグルだろうと、神の許しへの入り口だと説教してまわる僧服を着た人々だろうと、問題ではない。私のとっては、それはどれも時代遅れの有害な遺物にすぎない。

 私は、彼らがみなぺてん師であると言っているのではない。自分を霊的知識の最後の審判者であるとか、特別司祭であるとか吹聴する人たちは、心得違いした人だと言っているのだ。そうした時代は終わった。教えの促進者は別として、キリスト教の牧師、ユダヤ教の牧師、回教の高僧などを、地球上の誰もが必要としない、少なくとも百年から百五十値の時代に入っている。

 最終的には人々は真理に目覚めるだろうが、大衆が霊的に幼児化されている制度は、したたかに堅固である。霊的幼児化という言葉で私が意味しているのは、啓発つまり霊的知識の権威とそれに至る通路にいくつものフィルター、いくつものコントロール・ポイントが設置されている状況のことである。そして誰もがそうした状況を子供のようにただ受動的に受け容れている。これは教え込まれた行動パターンであり、そうしたパターンを忘れなければならない。これは霊的相互依存である。

 なるほど、霊的情報を世代から世代へ伝え、共有したいと望んでいる人たちの役割があるかもしれない。しかし私は、ヒエラルキー、権力強奪、抑圧劇、霊的依存の心の背景について話している。不運なことにこの霊的相互依存は、人々の心に入り込むという点ではすこぶる強力であり、
人々は一歩ごとに指示を与えてくれる誰かがいないと、彼ら自身で真理を学んだり経験したりすることができないと感じているほどである。

 私の人生の初期における望ましい事柄のひとつは、正規の教育を少ししか受けていなくても、また指示を与えてくれる人がいなくても、個人は心理や真実を学び、啓示を受けられる、ということを経験的に知り得たことである。

 科学者の頑なな正論は、宗教の頑なな正論に勝るとも劣らない。現代の科学者は、新しい高僧の座を占めるに至った。覚えておくといい、科学者はまず初めに人間であり、しかる後に科学者なのである。したがって彼らとて、人間のすべての欠点、弱点を併せもっている。ハーバードの教授が博士号をもっているからといって、聖職者が陥るかもしれない出世欲や独善性の罠にはまらないとはかぎらない。彼らもまた真理を追究する代わりに、教え込まれた信条体系において狂信的、独断的になり得る。

 今日の世界で私たちが直面している問題の多くは、彼らが霊的問題、宗教、科学、政治、経済のいずれにしろ、真理とは無関係な何らかの展望をもちつづけていることである。人々は、自分の信条体系と繋がりのある展望をもち、時代遅れの何かに耽溺し、それを手放すことができないのだ。科学者については、これは確かに真実をついている。彼らの信条体系に不適合であると言う理由で、伝統的な学会が飛躍的な大発見をいかに拒絶してきたか、枚挙にいとまがない。

 だから私は人々に言っている、「信条は少なめに、信念はふんだんに」と。あなたは無限の信念をもつことができるが、個人のもつ特定の信条は最小限度にしておく必要がある。そうでないと、科学上だろうと宗教上さろうと、教条による洗脳の罠に陥ってしまう。そして人々は、教条に対して狂信的になり、独善的に執着する。そうなったとたん、真理の探究は停止してしまう。

 人間にとって必要なのは、真の謙虚さと宇宙的霊性である。真理を見つけたいという気持ちをもたなければならない。開かれた次なるドアが、従来の確信や信条を撤回するなら、そうさせることだ。あなたが物理学者であれ科学者であれ、あるいは霊的仕事をしている人であれ経済学者であれ、ひとつの概念に捉われた考え方は―真実を知りたいという思いにしっかりと焦点が絞られていないから―真実の探求において妨害となる。

 個人的なことだが、私は医学を専攻する前に、瞑想法、健康法,食餌療法を学んでいたので、より幅の広いパラダイムで医学を学べたことを非常に有難く感じている。医学と科学の領域から、それに洗脳されることなく、良いことを学びとることができた。

 このシステムに張られた罠にはまり込む現象は、あらゆる専門職、あらゆる分野で起こる。なぜ起こるかというと、最近の知識を究極の知識であると錯覚してしまうからである。究極的知識は〝神格″以外は誰ももっていない。にもかかわらず、彼らは専門的知識をもっているために、すべてを知っていると考える。実のところ、知るべきことの大部分は誰によっても知られていない。

 それで私が思うのに、科学者サークルや宗教家サークルの高僧たちの罠を避ける唯一の道は、真理を見出すに充分な真の熱意をもち、思い切ってあなたの評価を刷新することである。そうすれば、非常に少しのことだけが定着し、絶対的となる。その他のことはすべて相対的である。それが私たちのいる世界の本質的な特徴である。つまり相対的な世界だ。固定されるべき絶対なるものは、きわめて少ない。

 地球上のあらゆる霊的伝統の中心的な教えを研究すると、そのどれもが同じ意見だ―神の存在、許しと愛の本質、そしてより大きな霊的テーマ。これらはすべて宇宙的である。相違するところは、ある社会と別の社会との、教え方の違いと文化的傾向の違いだが、こういったことは全く一時的であり、それぞれの霊的伝統とともに変化していき、いずれにせよあまり重要なkとではない。

 ある分野では、あなたは大変な伝統派かもしれないし、それであなたがうまくいくならそれでいい。しかし、それが霊的伝統の全知識の初めであり終わりである。などと考えてはならない。そうではない。持続するものの範疇に入れていいことは非常に少しにかぎられており、それは不動の真理のみである。その他のほとんどは、査定と真かの段階にあると見るべきだ。

 だが、私たちはそうするように訓練されてはいない。宗教的にしろ科学的にしろ、私たちの教育システムは堅い頭を創るように設計されており、そうしたやり方では狂信者を生み出してしまう。それは次に、そのような観念構造から利益を得る人たちが、どんな犠牲をはらってでも保護しようとする世襲制となる。科学分野では確かにその通りであり、どれほど証拠を突きつけても、「これは真実ではあり得ない」とのたまう人たちがいるのだ。

 私たちのプロジェクトの科学顧問、ローダー博士は、ニューハンプシャー大学に同僚がおり、その人に新しいエネルギーの機械を渡した。彼はその機械をテストし、作動することが立証あれたにもかかわらず、依然、それを信じようとしない。そんなことはあり得ないからだ!

 科学者たちが狂信的になる信条体系は、特定の宗教的過激派が信じる狂信的な信条体系と同様に悲劇的である。これらはいずれも、最後には社会に害を与えている。

 聞いてもらいたいことがひとつある。それは私が瞑想教師になるために学んでいたマハリシ・インターナショナル・ユニバーシティで起こったことである。私は高次意識の応用を実験していた。ある夜おそく、私は静座し、瞑想中だった。私は私のインドの目で同じクラスの若い女性を見、そして私の部屋へ来るように彼女を招待した。私たちは霊的問題について語った後、一緒に瞑想した。

 全くだしぬけに、私のマインドの目で彼女を見たのだった。私は深く静かな瞑想の中にいた。彼女は寮を後にし、外へ出て、キャンパスの縁を回り、階段を上って、私のドアをトントンと叩いた。私はびっくりした。それはまるで夢のようだったが、実際にそれを生でみていたのである。私はドアを開け「やはり、あなたでしたか」と言った。「あら、私を待ってたんですか?」と彼女。「ええ。あなたが来るのを見たんです」私は全くクリア―に見たのである。

 私は十六歳から二十歳の期間に、こういった種類のことを日課のように経験しはじめた―一日に数回とか、続けざまに起こることもあったが。そして、私はこの能力を地球外文明研究センターと情報開示プロジェクトの設立に使い、数多くの秘密情報提供者と証人の確保に役立てた。彼らの中には私を見つけた人もいるが、私もまた彼らを見つけた。というより、引き寄せた。くれについては後ほど話そう。きわめて不思議な話になるからだ。

 宇宙が私たちの中に折り畳まれていることを思い出そう。私たちは大きな力をもっている。すべての人間がもっている。私だけではなく、あなただけでもない。誰でもだ。みんな同じだ。そして必要なときにこの〝高次のパワー″を呼び寄せ、素晴らしいことを達成するために必要なことを為すことができる。

 ところで、もしあなたに最後の犠牲となる用意があり、そして同時にこの知識をもっているなら、あなたは霊の勇者と呼ばれるものの側に回る。どのような危険があろうとも、必要とされていることを断行する人である。あなたは恐怖の彼方に存在するのだ。

 私のこうした若かりし日々は、その後に為すべきことの準備期間である、いまここにいるという目的の一部であるに違いない。臨死体験をしたとき、「私たちと一緒にくることも出来るし、地球のあなたの体に戻ることもできる」と言われたこと、また〝霊″は私に地球へ戻るよう望んでいたこと、この仕事をしなければならないと聞かされていたことを、私はつねに感じている。私は地球へ帰らずに、至高の聖なる存在と共にあの知覚状態に留まることを選ぶこともできた。私は彼らの意志に従うことを選んだが、それは自分の幸せのためではなかった。初めに述べたように、地球へ戻ることはどちらかtpいえば気が重いことだった―ああした子供地代だったし、いつも重い病にかかってもいた―ここへ戻ることに少しも興味はなかったが、戻ることに同意したのである。

 人間の自由意志が媒介しなければ、存在の変容は起こらない。それは私たちについて言えることだ。一九八〇年から一九九〇年の間、私は明らかにこうしたことに気付いていた。しかし、最近結婚して八年間(一九八〇年から一九八八年の間)に四人の子供をもち、医者になり、病院勤務研修意志になり、開業医となり、私は手一杯であった。私はこれらの教訓を忘れていたわけではない。家庭とキャリアを築き、さらにこの仕事を進める能力を養う時期である、と自覚していた。